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人間性とモラルの違い

タイトルの通り

 

人間性とモラルの違いを考えます。

 

人間性とモラルを同質だと考えている人が多いように私は感じます。

 

 私の思う人間性とモラルを記すと

 

人間性(の例).....独創的な思想、思考

 

モラル(の例).....電車に落ちてるゴミを拾うときに必要なもの、他人が不快にならないように努めるのに必要なもの。

 

のように捉えています。

 

ここで私が伝えたいのは何かというと、

 

人間性とモラルには関係が一切ない。

人間性とモラルは別物で、履き違えてはいけない。

 

ということです。

 

例を挙げると、

自分の意見を、相手の意見を抑えてでも貫こうとするのは、人間性によるもので、モラルのないということにはならない。

 

といった事でしょうか。

 

さらに述べると、

 

他人の意見を無視するのは、どんな人間でも気が引けますが、(脳科学的にも人間は他人と共存(共感)しようとしないことに抵抗を持つことは立証されている)

自分の考えなり意見なりをしっかりと発言しないで、他人の意見に寛容になろうとすることをモラルのある人間として崇める時代には終止符を打つべきだと、

私は思います。

 

ここで本論に入る前に、キーワードを記しておきます。

私が言葉にどのような意味を付帯させているか、少しでも理解してもらえたら幸いです。(私の中での)言葉の相関性のある言葉を−−で示します。

1,偽心−−傲慢−−独創性−−革新−−人間性

 

2,本心−−謙虚−−建前−−保守−−モラル

 

といったものでしょうか。

 

本心と建前が同じ部類にあるのがおかしいように感じるかと思いますが、

そこはしっかり本題で記します。

 

 では、本題に入りましょう。

そもそもなぜこんな議論が始めたかというと、

 

1つの例としては、

いつまでロボットを量産している教育をしているつもりだ。

 

という考えが私にはあるからです。

 

高度経済成長が終わり、これからはルーティンをこなせる人間なんて必要はずです(ロボットが仕事すればいいわけですから)

 

それなのに画一化された考えを重視しているのが、私には納得いかないわけです。

 

その中で原因となるのが

 

『モラルと人間性の同一視』

 

だと私は思います。

 

先にも述べましたが、自分の意見を主張することは自分の伝えたいこと、という点では本心なんですが、

 

他人と共存したいという本能がある人間からしたら、

 

革新的な考えを述べるのは反対意見を受ける覚悟も必要でそれにより偽心になると、私は考えています。

 

すると、他人と共存するために自分の正しいと思うことを抑えることを本心といい、建前といい、さらに言えばこれをモラルだと私は思います。

 

人は他人に嫌われたくないわけですから、(ここは議論する必要を感じませんが、したければ中二病にでも感染してください)

モラルを大切にするわけです。

 

そうすると革新的な発言をしなかったり、

自分の正しいと思う意見などを言わないわけです。

( これが私の思う現在社会の嫌な部分なわけですが、、)

 

では、モラルと人間性を同一視しません!

これで解決!と言ってもそうはいかないのがここの面倒なところなんですけれど、

 

やはり、生物的にも共存意識は必要ですから、

割り切るということは、偽心であり、革新的であり、

 

生物の生存本能に反逆するものは勿論心身を疲弊させるものですから、

 

これもまた簡単に解決できないことになります。

 

こういうことで、モラルと人間性を同一視すると、モラルが優位になります。

 

では、モラルと人間性を同一視することに終止符を打つ、何か解決策はあるのかというと、

 

『新たな思考単位を作ること』

 

が必要だと私は思います。

 

全ての人間が、自分の偽心(正しいと思うこと)を他者に強要できる世界になればそれはそれでモラルが失われるわけですから。

 

前提として最初に示した1,2の考えはどちらも必要で、欠けてはなりません。

 

ではロボット(人間)を量産する必要もあるのかというと、部分的には必要で部分的には不要という結論になってしまいます。

 

そういう曖昧な感覚を許容せずに、全てを一般化しようとする、社会の序列性によって、2,のモラルや謙虚さが重んじられる現状があるのでしょう。

 

そもそも、どちらかが重んじられる社会ができるのは、

全ての人間が異なる価値観をもっていて、その価値観を社会が包括的に許容しようとし、保守的になる結果によるものでしょう。

 

それに加え、現在社会では、他人が自分と違う価値観をもっているということを、

全ての人間が理解しているようで、

実はほとんど理解できていないと言ってもいいでしょう。

 そして、価値観の違いだと気づかなければ、自然とモラルが優位になるように考える傾向があります。

 

ここで例を挙げると、

ある政治家の議論(?)の話ですが、

その政治家の名前を仮にAとBとします。

 

Aは民族差別をするな!という主張。

Bは民族差別をするのも民主主義社会では自由だ!言論の自由だ!という主張。

(在日韓国朝鮮人を日本から追い出そうとする考えです)

 

この議論が動画サイトに公開されると

Aの意見をほとんどの人が正しい!というわけです。(コメント欄)

 

勿論どちらかを正しいと認識するのは結構ですが、この場合はBがまるで小学生のように自己の意見を主張していたから、

主張内容については誰も気にせず、主張の仕方、モラルの面で劣っているからAが正しい!といった感じでした。

 

やはり、結局は、そこにあるのは価値観の違いであるのにもかかわらず、

 

モラルの有る無しの時点で、人間性に比べて、モラルが優位と考える傾向が強いと言えるでしょう。

 

そういう点では、やはり価値観の違いというのを個人個人で把握しきれていないと言えるでしょう。

それにより、人間性とモラルが衝突すると、モラルが優位になってしまう。

 

 

 

それらを解決するために、新たな思考単位をつくるといいましたが、

 

これは数学の単位に

 

0,1,2,3,4....のように数字序列があるのに対して、

 

新たな思考単位は、序列も文字も大きさも何も無いが、

 

概念としては違いが存在する、そんな単位を新たに創造するということです。

さらに、

個人個人がそれを把握しないといけないわけです。

 

その認識をするだけにより、価値観の存在を立体的に把握でき、

価値観の違いによる、人間性とモラルの天秤もどちらかに傾くということの無い、曖昧な社会というものを実現できるでしょう。

 

 そしてそれにより、教育なども変わり、モラルは少し失われそうだが、より革新的な社会が誕生するでしょう。